クトゥルフ神話trpgと「感動」に関するお話

最近、青弩のファフナーのテーマ曲のようなタイトルのシナリオを始めとした、

"感動モノ"のクトゥルフ神話trpgのシナリオが増えてきました。

 

もちろん"trpg"に正解は無く、GMとPLが合意の上でなら何をしても良いのですし、

動画が主な宣伝塔となっている(これは公式に問題がありますが、置いておきましょう)現在のCoC界隈、動画映えするシナリオ、すなわち映画のようなシナリオが好まれるのは当然と言えるでしょう。

 

そして、trpgに感動体験を求める事は間違っていません。

ギリギリの戦いを苦しくも勝利したり、仲間を庇って死んだり、まぁ、感動するシーンは色々あるでしょう。

 

しかし、それをシナリオから押し付けられるとなると、話は別です。

 

trpgの本質は、物語を創る事にあります。GMとPLとダイスで、自分たちだけのエンディングを生み出すのです。

同じプレイヤーでやっても、ダイスという乱数により全く同じ結果を迎える事がない。

それがデジタルゲームでは不可能な点であり、trpgの面白さです。

 

"感動するシーン"はまぁ、良いでしょう。面白いと思います。

死者のストンプのラストとかもそうですね、まぁ哀愁漂って感動的です(街は悲惨な事になりますが)。

 

しかし、"感動するシナリオ"は、感動する結果が前提です。

すなわち、GMとPLに話を創る余地がないのです。

 

ここに(あくまでCoCの話になりますが)、「感動させたいKP」が加わると地獄です。

シナリオを知っているKPは、何が何でもPLをその"感動する結末"に持って行こうとします。

すると何が起こるでしょうか?

PL「この状況では、僕の探索者はこう動きます。」

KP「シナリオから外れるので無理です。」

PL「では、こうします。」

KP「それも違います。」

PL「では、どうすれば良いですか?」

KP「自分で考えてください。」

 えっと… 楽しくないですよね?

俗に言う"吟遊詩人"や"脳内当て"になってしまうのです。

 

もちろんこのような、一切アドリブの利かない下手くそなKPはいます。

それはシナリオが変わっても同じでしょうが、ストーリー性の強いシナリオ、すなわち"感動系"ではそれが顕著になります。

「悪霊の家」や「とある漫画家に起きたこと」であれば、(PLがよほど突拍子のない事をしない限りは)このような事は起きない筈です。

 

そして、シナリオから外れる事を恐れ、まず探索者に武装をさせない、不思議な力で行動を阻む、最後にはHOを与え想定外の行動を考える事すら禁止する… とエスカレートしていきます。

 

そもそも、根本が間違っているという事に気づかずに。

 

trpgの感動とは、GMとPLとダイスの結果によって生まれるものであって、

シナリオやGMから提供されるものではないのです。

 まぁ、もちろんGMとPL同意の上であればそれもいいんでしょうけど、僕はやりたくないですね、押し付け感動モノは。

 

 

 

あとね!クトゥルフ神話trpgは死と硝煙の臭いのする生臭いゲームなので、

そういうシナリオやりたいならゆうやけこやけとかでやれば良いと思うよ!!!